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白亜の檻
緑の大地の上を風が吹き抜けていった。
遥か彼方、雪を頂く険しい岩山から吹き降りてくるその風は冷たかったが、日々暖かくなる陽光は確かに冬の終わりを告げていた。
鳴川郁人は、そんな草原に建つ一軒のコテージのテラスに憮然と座っていた。
テラスに運び出された机の上には愛用のノートパソコンが小さな駆動音を立てながら主を待っていたが、郁人は椅子に腰掛けながら草原とその向こうに見える黒々とした森を茫と見つめるばかりであった。
いや、ただ気だるげに定まらぬ焦点を森に向けていた……と言ったほうが良いかもしれない。
風が郁人の頬を優しく撫でていった。
葉擦れの音が包み込むように草原を渡り歩いた。
まるでそこだけ時空が歪んで取り残されたような、悠久なる時間の中で気まぐれな奇跡でも起こったかのように、郁人はふとノートパソコンのキーボードに触れる。
スリープモードに入っていたノートはすぐにモニタにウィンドウを書き出した。
そこにはメーラーがまるで常駐ソフトのように立ち上がり、幾つもの受信メールを小さくないモニタいっぱいに表示していた。
ついいつもの癖で送受信スイッチを押してしまうが、最早誰からメールが来るわけでもなく、『新着メッセージなし』という無情なメッセージが画面を侵食するだけだった。
郁人はタッチパッドに指を走らせて、メールのひとつを開いた。
件名は「テスト」。差出人は「yukino」となっていた。
『あ~、ただ今メールのテスト中。てすてす...』
メールに『あ~』も『てすてす...』もないんだが、雪乃なら如何にもやりそうだった。
一寸苦笑して、郁人は次のメールを開く。
『Dear鳴川郁人様
シカゴに着いて3日が経ちました。すごく爽やかな気候で気持ちのいい日が続いています。日本は夏真っ盛りですけど、身体を壊さないように気をつけてください。』
次のメールを開く。
『Dear鳴川郁人様
戴いたこのノートパソコンにもようやく馴染んできました。まだまだ文字のボタンを探すのに時間がかかりますが、パソコンって面白いですね! 私が入院している間に世界がこんな事になってるなんて、ちっとも知りませんでした。・・・あ、でもでも、テレビでインターネットとか電子メールって言う言葉は聞いたことあるんですよ。何だかテレビドラマの登場人物になったみたいですごくドキドキします。
けれどホントにこんなパソコンとか貰っちゃって良かったのでしょうか? 『新しいのを買ったからいらない』と鳴川さんは仰いましたけど、すごく高いものなのでは...? 帰国できたらぜひぜひお礼させてくださいね。ではまた。』
『Dear鳴川郁人様
こちらの病院に転院して5日が経ちました。この病院もすごく広くて外は自然がいっぱい。外出も許可されているのでよく森の中を散歩するんですよ。
鳴川さんと清里高原で森を歩いたのはつい2週間前の事なのに、すごくすごく懐かしいです。清里高原で買っていただいたオルゴールを聞きながら木陰のベンチに座って目を閉じていると、胸がきゅっとなります。
それでは今日はこれで。時差がなければもっといっぱいお話できそうですけど、一日にたった1通だけ来る電子メールは私の宝物です。またご返事ください、待ってます』
『Dear鳴川郁人様
今日、執刀医の先生と初めてお会いしました。すごく忙しい先生で、何件も何件も手術を依頼されているらしくて「待たせてしまって悪いね」と声を掛けてくれたんですヨ。...あ、でも私英語は分からないので通訳さんにお願いしたんですけどネ。(^o^)
看護士の人たちも凄く優しくて、いろいろと良くしてくれます。退屈はしないんですけど、やっぱりちょっと寂しいです。そうそう、今日は鳴川さんと同じバイクを病院の前の道で見かけました。色は赤だったけれど、やっぱり『どぅーん』ってスゴイ音がしていました。今年の夏はもう間に合わないかもしれませんけど、ゼッタイゼッタイ海に連れてって下さいね。ではでは・・・』
郁人は次々にメールを開いていった。
とても明るい口調で観光旅行のような他愛のない事柄が書かれたメールの裏に、郁人は少女の寂寥と恐怖を感じ取っていた。
声ならぬ聲(こえ)を……電子の記号に過ぎないテキストデータの影に隠れた生々しい叫びを郁人は確かに聞いた。
微かに痛んだ胸を殊更に無視して、郁人は続けてメールを開く。
『Dear鳴川郁人様
手術の日取りが決まりました。明後日の朝に手術だそうです。すごく突然ですけれど、手術を受けるためにここまで来たのですから今更怖気づくわけにはいきません。
明日は体調を整えたり剃毛のために部屋を変わらなくてはならないそうです。せっかく伸ばした髪の毛を切られちゃうのはすごくすごく残念。。。
また、そこではパソコンが使えないのでメールが打てるのは今日まで。手術が終わって一般病棟に戻ったらメールしますね。
今度メールを打つときは鳴川さんに言わなくちゃいけないことが沢山あるんです。一杯一杯感謝しているんですヨ、これでも。
その時は私の今の気持ちを全部全部書いちゃいます。
数日の間だとは思いますけど、ちょっとだけ待っていてくださいね。
それでは、どうかその日が早く早くやってきますように。
PS.
術後のことを考えたら眠れなくなっちゃいました。でもきっと、成功しても失敗しても『私は精一杯生きた』と胸を張っていることでしょう。その力をくれたのは他ならない鳴川さんの言葉だったのですから。
だからもし私のメールがこれで最後になっても、どうか悲しまないでむしろ胸を張ってください。そのほうがきっと私も救われるような気がしますから。
それではまた。お話できる日を楽しみにしています』
そこまで読んだ郁人の指が所在なげにタッチパネル上をなぞった。
8月のその日を最後に雪乃のメールは途絶えている。
郁人が受け取ったメールはそれが最後だった。
郁人はプログラマの職を辞した。
玲子は一応型どおりの遺留を試みたが、その意思の堅固なところを見て首肯せざるを得なかった。
郁人は医療機器のテクニカルエンジニアを志した。
医療機器は近年コンピュータの導入で飛躍的にその精度を上げてますますその有用性を誇示するようになったが、現場で扱う人間の技術レベルまでは補えない。
コンピュータは彼の得意分野でもあったし、何より医療関係に勤めたかった。
人々の笑顔を奪い去る問答無用の理不尽を、その人生さえも捻じ曲げる狂猛なる不条理を、あらゆるものを叩き壊し、蹂躙し、嘲うかのような病魔を赦せなかったのだ。もしも自分にこの悲劇の鎖を断ち切る力があるならば、どれほどの艱難辛苦が待ち受けようと力を尽くしたいと心から願った。
秋が来て冬が巡って春が訪れる頃、郁人は一通の書簡を受け取った。それは郁人が受けていた医療メーカーからの採用通知であった。
もう郁人に迷いはなかった。けれど……
郁人はノートPCの液晶モニタをもう一度見た。
モニタは勿論今までと変わらぬ画像を映しつづけている。
微かな嘆息――。
希望(ねがい)は叶ったのだ。これ以上何を望む事があろうか。
それは、きっと……。
郁人は空を見上げた。蒼穹の彼方に真昼の月が見えた。
「どうしたんですか?」
不意に声が聞こえて郁人は振り返った。
テラスへの戸口に現れた影は車椅子に腰掛けた少女であった。墨のような黒髪をショートカットにして、玉飾りのついた髪留めで短い髪を結わえた、あどけないと言った方がよい年頃の少女だった。
郁人はふと頬を緩めた。
「ん……。なんでもないさ」
「変な郁人さん」
そう言って車椅子の少女は「あーっ!」と素っ頓狂な声をあげた。
「また昔のメール見てる! それもう消しましょうよ! すっごくハズカシイんですからぁ!!」
少女は真っ赤になって声を荒げたが、真剣に怒っているといった風ではなかった。
郁人は笑って言った。
「これは俺の宝物だからね」
少女は「あううぅぅ~」と唸りながら頬を膨らませた。どうやらそれ以上強くは抗弁できないらしい。
郁人はノートPCの電源を落とすと再び草原の向こうに拡がる森を見た。
「……日本に帰っちゃうんですね」
少女がしみじみと言った。郁人は「ああ」とだけ答える。仕事が決まった郁人には4月から新しい生活が待っている。
「ま、ゆっくりリハビリ続けなよ。今生の別れって訳じゃないし、これから時間はまだまだあるさ」
そう言って郁人は茶目っ気たっぷりにウインクをした。
雪乃から手術日を知らせるメールが届く前、郁人は一通のエアメールを受け取った。
差出人はMiyuki Minaseとあった。
中からは航空券と書簡が一通出てきた。
書簡には雪乃が最近ふさぎがちであること、食欲が殆どなく、もとより小柄な体躯もあって主治医より体力面で手術に影響が出るかもしれないと告げられている事などが認(したた)められており、『もし赦されるなら』との但し書き付きで見舞いに来てはもらえないでしょうかと、控えめながら、しかし悲痛と言ってよい懇願の言葉が並んでいたのだ。
郁人は悩んだ。
もとより国際電話で済まそうなどとは考えなかった。悩んだ末、郁人は玲子に辞表を提出した。思えば聊(いささ)かエキセントリックな判断だったかもしれないが、今もってこの判断に間違いはなかったと断言できる。
勿論玲子は驚き、遺留が叶わぬなら休職扱いでも良いとまで提案したが郁人の意志は固かった。多大な迷惑がかかることは火を見るより明らかであった。それならば職を辞した方がお互い気が楽だと考えたのだ。
郁人はシカゴの片田舎にある雪乃の病院を訪れた。
郁人の顔を見た雪乃の顔はちょっとした見ものであった。郁人が予想したよりは元気そうな様子で美雪の取り越し苦労とも思えたが、当の美雪によると「鳴川さんの顔を見た途端に元気になるんだから」という事らしい。
2日後に行われた雪乃の手術は延べ14時間に及んだ。
後顧の憂いを断つために一部浸潤した腫瘍も根こそぎ切除したらしく、術後は一時的に半身麻痺を残してしまったが、リハビリの効果か徐々に感覚は戻ってきているらしい。
それが若さなのだろう。
歩く為のリハビリと、予後観察を兼ねて入院を続けているが夏前には退院できそうだという話だった。
「私が日本に帰ったら……」
雪乃は目を閉じていた。
二人を風が優しく包んだ。
「海……連れてって下さいね」
郁人はじっと目を閉じている雪乃を見て、ゆっくりと「ああ」と答えた。
閉じられた雪乃の瞼の裏にはきっと夏に煌めく蒼い海と白い砂浜が広がっているに相違なかった。
そして二人を乗せた黄色いドゥカティ モンスターはその海岸沿いに伸びるコーストロードを、耳一杯にエキゾーストノートを響かせながら走るのだ。
それは籠から解き放たれた鳥たちが歓喜の唄を歌うように、天に届けと奏でられる旋律。
少女が永劫ともつかぬ闇黒を駆け抜けて手に入れた生命の賛歌なのだった。
「白亜の檻」(完)