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いつか白樺の湖畔で
第2章
1
「私、バイクの免許取る!」
その日の夕食の席、家族の揃ったところで私はおもむろにそう言った。
お父さん、お母さん、お婆ちゃん、そしてお姉ちゃんまでがぽかんと私の方を向いた。
そりゃそうよね。
十五の女の子が突然そんな事言ったらふつーそーゆー反応が返ってくるわよね。
でも、その後は私が思い描いていたストーリーと少しばかり違っていた。
てっきりどなられるものだと思っていたら、反対に笑われてしまった。
「おもしろいこと言うねぇ。この娘は」
お婆ちゃんまでそんなに笑わなくてもいいじゃない。
「そんなにおもしろいかな?」
私はちょっとばかりむっとして訊いた。
「そりゃ、冗談としてはサイコーの部類ね。あんた、自転車乗れたっけ?」
お姉ちゃんがげらげら笑いながら聞いた。
そうなの。私、自転車って乗れないんですよ。
「練習するもん! 大体バイクって、こがなくてもいいから乗れそうな気がするんだ」
「そりゃないね。あんたみたいに運動神経の抜けてる娘にゃ無理ってもんだね」
こんな時、この三才歳の離れた少しばかり性格のよくないお姉ちゃんは一言多い。どうせ私は運動神経ゼロですよーだ!
「じゃあ、私が免許取れたらお姉ちゃん、どうする?」
鼻息荒く私が訊くとお姉ちゃんはバカにしたように、
「そんなの、教習所通えば誰だって取れるわよ。賭けになんないわ」
お姉ちゃんは御飯を食べながら澄まして言った。その手を止めて、
「賭けにするんなら、あんたにも条件とリスクが必要じゃない? 例えば教習所通わずに試験場だけで十回受験するうちに取るとか……」
「そんなの出来る訳ないじゃない!」
「じゃ、教習所で十時間オーバー以内で卒業、ってのはどう? 取れたらあんたの言うことなんでも一つだけ聞いてあげるわよ」
お姉ちゃんはお箸で私を指した。
「よーし! 乗った!」
「そのかわり! 取れなきゃあんたにもペナルティーってもんを科さなくっちゃ。賭けって言うくらいだからそれくらいは当然じゃない?」
「い、いいわよ!」
思わず私は答えてしまった。
「それじゃあ、決まりね! 取れなかったら三輪車で町内三周ってどう?」
そう聞いた瞬間、私はお姉ちゃんにハメられたことに気付いた。こ、これってピンチじゃん!
「ちょ、そんなのないよ! 無効よ! 無効!」
「あーら、賭けを持ち出したのはどなた?」
「これ! いい加減になさい!」
テーブルの上で私とお姉ちゃんがつかみ合いのけんかを始めようとする間を、お母さんが割って入った。
「椿も梓も! 食事中ですよ!」
さっきまで笑っていたお母さんもさすがに怒った。私たちは十五と十八にもなって、まるで幼稚園児か小学生のように小さくなった。
「それから梓。まさかあんた本気でそんな事言ってるんじゃないでしょうね。冗談にしてもちょっと度が過ぎるわよ」
「冗談なんかじゃないもん!」
私はすくめた首を持ち上げてお母さんに抗弁した。
「私はもう決めたの! オトナになりたいから、免許を取ってバイクに乗るんだもん!」
けれどお母さんにはいつもの私のわがままと映ったみたい。
「いけません! オートバイなんて危険なだけです! 大体何なの? その理由は」
「私がオトナになる為にはバイクに乗んなきゃダメなの。それが私の結論なの!」
「なぁーにが、結論なんだか……」
「椿! あんたは黙ってなさい!」
途中でチャチャを入れたお姉ちゃんを一喝してお母さんは私の方を向いた。さすがに怖くなってちょっとだけ引いたけど、私は私の思ったことを貫くんだ!
だって私は正しいんだもん! ……たぶん……。
「梓……」
お母さんは少し気持ちを落ち着けてる様だった。
「あんた何か勘違いしてるよ。人が大人になるのにオートバイに乗んなくちゃいけないんだったら、オートバイに乗れない人はどうするんだい? 大人になる方法なんていくつもあるんだよ。わざわざそんな物に乗る必要なんてないんだよ」
諭すように言ったお母さんに私は
「でも、私にはこの方法しか思い付かなかった。私は私の考えた通りに生きたいよ」
と、珍しくムキになって言い返した。
「あんたが何と言おうと私は絶対許しません! あんたは女の子なんだよ? それを……」
私は食事の途中だったけれど箸を置いて立ち上がった。
「女の子だからとかそんなのカンケーないよ! 誰にメーワクかけるでもないし」
お母さんも立ち上がった。
「やめなさい」
火花を散らすお母さんと私の間に今度はお父さんが首を突っ込んできた。
いいですとも! 上等じゃない? 私はここにいる四人全員を敵に回しても絶対バイクに乗るんだから!
お母さんは席に座った。
お父さんからがつんと一言あるのを待つかのようだった。
「梓も座りなさい」
その声はいつものお父さんの声より低く、くぐもっていて迫力があった。お父さんはこの女ばっかりの家でいつも立場が弱くて小さくなっているけど、この時ばかりはさすがに私もたじろいだ。
私は不承ながら座った。
お父さんは私の目をじっと見つめた。何だか心の中を見透かされそうな、そんな目だった。 今までのお父さんのイメージからは想像も出来ないほどその目は怖くて、優しくて、広くて、そして深かった。
「梓……」
お父さんが呼んだ。私は無言でお父さんを見返した。
「今の話、本気か?」
私は頷いた。もとより迷いはなかった。
しばらくお父さんは私を値踏みするように見て、
「わかった。好きにしろ」
と言った。
お母さんが再び立ち上がるのと、私が呆気に取られたようにお箸を取り落としたのが同時だった。
「ちょっと、お父さん! 何ですか、それは?」
噛み付くように反論するお母さんをお父さんが制した。
「この娘が大人になるために決めたことだ。大人になろうとしている娘を引き止める道理はないさ」
「だからって! この娘は椿の言う通り運転には向かないわ! そんな娘に危険なオートバイに乗せるなんて……!」
「なあ、お母さん。俺は最近思うんだが、それは過保護なんじゃないかな? 危険というだけで触らせもしないと、何が危険なのか、どうすれば安全なのかさえも分からないままだ。俺達くらいの男の小さい頃はナイフくらい誰だって持っていたし、皆器用にナイフを使えたもんだが今の子供達を見ろよ。ナイフみたいに危険なものは親が取り上げちまうから、鉛筆すら満足に削れないじゃないか。それと似たようなもんだ」
「いいえ! 違います!」
お母さんは金切り声になっていた。
「ナイフで扱いを過っても指を切るくらいで済みます! でもオートバイで事故を起こしてごらんなさい! 命に係わるんですよ! 他人様にも迷惑が掛るんですよ!」
「この娘は大人になる為と言った。その為にも責任というものを学ばねばならん。自分の行動に対する責任というものをね。俺は好都合だと思ったんだが」
「……」
長い沈黙があった。
私は少し後悔していた。
今まで夫婦ゲンカなんて見たこともなかったのに、私の一言でお父さんとお母さんが大ゲンカをしている。
私の胸は痛んだ。いっそのこと前言を取り下げようか、と思ったそのときお父さんが静かに口を開いた。
「それに俺は初めて見たよ。梓があんなに言い張るところをね。今までどちらかって言うと主体性がなくて自分の意見をはっきり言えなかった梓が今、あんなにはっきりと自分のやりたいことを口にした。だから俺は見届けてやりたい。……親としてね」
私はちょっぴり感動した。
少なくともお父さんは私の成長を認めてくれてるんだ……。
「それから梓」
お父さんが私に向き直った。
「俺はお前が免許を取るのも、単車に乗るのも特に反対しない。だがしかし、今も言ったようにお前は自分の責任というものを学ばねばならん。自動車学校へ通うのも、単車を買うのも自由だが、全部自分で費用を賄え。家からは一銭も出せん。……それが条件だ」
それが責任……。
私は胸に昇る感情をぐっと堪えた。甘えてちゃダメなんだよね、きっと。
「わ、わかった」
私はお父さんと約束した。
お母さんもそれからは何も言わなくなった。
次の日から私は早速行動を開始した。
一番最初にすることは学校に免許の取得許可を貰うことだった。
ウチの学校は県下の普通科高校としては珍しく生徒の免許の取得を禁じていない。いや、話によると全国的にも例が少ないそうなんですって。
交通教育の一環として許可制ながらバイク通学も認めていて、免許の保持者には月に一度安全講習の時間を設けて出席を義務付けている。
その甲斐あってか未だ大きな事故も犯罪もなく、この制度は今も続いている。
私は自動車学校に入学するつもりだけれど、それには許可証に校長先生のハンコがいる。
もちろんそのハンコが免許の交付のときにもいるって寸法なワケ。
許可証の交付には一応事前審査みたいなものがあるんだけれど、これはほとんど形だけのもの。選別していては差別になるし、第一教育にならないからだって。これは免許の取得の時の事前審査と同じで、視力障害や運動機能不全のある人を見ているだけらしいって聞いたことがある。
そんな訳で私は特に苦労することなく運転免許取得許可証を手に入れた。
まずは一歩前進。
次に私がすることは自動車学校に入ることなんだけど、私はその前にアルバイトを始めることにした。
今までのお年玉やなんやらである程度の貯金は私にもあったけど、私バイクを買うんだもん! さすがにそんな大きなモノ買う余裕はないからね!
アルバイトも自分で見つけなくちゃ。お父さんにあんな大見栄きったんだし、お母さんにも何言われるかわかんないもん。
私は新聞広告の折り込みでバイトを探して、本屋さんの店員のバイトを見つけた。
そんなこんなで私はゆっくりと、でも確実にひとつひとつやるべきコトを片付ける事にした。
2
誕生日を迎えた私は、いよいよ自動車学校に入学することになった。
申し込みのときに住民票の抄本とか印鑑とかムツカシイ事言われたけれど、お母さんが教えてくれたから何とか自分でできた。お母さんの応援がちょっと嬉しかった。
時間通りに自動車学校に行くと、入学式だって。何かおもしろいよね。
周りの人は車の教習に来ている人がほとんど。
この中では多分私が一番若いんじゃない? 十六歳になってまだ何十時間かしかたってないぴちぴちのほやほや(?)だしね。
そうしているうちに式が始まった。
校内での注意点や学科、技能講習の受け方、心構えなんかがすごく順序よく説明されていく。
後で聞いたのだけれど、ここの自動車学校は毎週毎週入学式があるみたいで何か事務的にすいすいと終わってしまった。
で、今日はこれでおしまい。翌日の技能教習の予約だけ入れて、本格的な教習はこれからこれから。
ここで教習所のカリキュラムを説明するね。
教習は大きく分けて学科と技能の二つ。
私はまだ何にも免許を持ってないから学科は全二十教程。技能は第一段階から第三段階までの三段階、全十一教程。学科試験とみきわめに合格するともう卒業検定。これに合格すると晴れて卒業できるってワケ!
そしたら免許試験場にいって学科試験を受けて合格すると憧れのバイクの免許が!
よーし! がんばるゾ!
次の日。
学校が終わると一目散に家に帰る。
二輪の技能教習には長袖長ズボンと、ヘルメット、運動靴の持参が決まりになってるから学校帰りに寄る訳にはいかないんです。
私は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
期待と不安がぐるぐると私の胸の中で渦のように回っている。何と言っても私は自転車にも乗ることが出来ない運動オンチだもん。
帰宅するやそれらしい服装に着替えて私は、どきどきしながら教習所に向かった。
予約の時間より随分早く教習所に着いた私は、ロビーから教習コースを見て時間を潰すことにした。
先輩のバイクの後ろから眺めた世界とは何とも掛け離れた、まるで箱庭のような世界。
そんな小さな路上に車も、トラックも、そしてバイクも走っていた。
次は私の番なんだ。
私は未知の世界に足を踏み出そうとしている自分が少し愛しくなった。
チャイムが鳴る。
教室から学科を終えた人達が出てきた。
その様子は普段見慣れた学校のそれとよく似てはいたけれど、生徒の年齢層がばらばらでちょっと学校とは違う。さすがに教室から出てきてたばこを一服……なんて姿は高校では見れないもんね。
配車係で乗車券を受け取った私はなにもかもが新鮮に見えて、思わずスキップしながらコースへ下りていった。
今日の二輪の技能教習には五人ほど集まっていた。
自動車の教習生が何十人もいるのにさすがに数は少ない。
中には女の人も一人いて、私は心強かった。その外には茶パツのオニーチャンとか、中年のオジさんとかいたけれどみんな上手そう……。
居心地悪そうに私たちが待っていると、ヘルメットを持った二十五、六歳くらいの先生がやってきた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
なんて爽やかに扉の方へ私たちを案内してくれた。
「えっと。まず最初に自己紹介しときますね。私は浜田と言います。この時間皆さんの教官を務めさせていただきます。どうぞよろしく」
私たちの教習手帳を手早く回収しながらあくまで爽やかに会釈する。
「この時間は第一段階の第一教程となっています。この中で全く初めて単車に触るという方がいらしたら手を挙げてください」
私は手を挙げたけど、他の五人は挙げなかった。どうも未経験者は私一人だけらしい。
さっきまでの根拠のない自信はどっかにいってしまった。
「えと、四条さん、ですね?」
爽やかな浜田教官はファイルをぱらぱらとめくりながら訊いた。
「おや、こりゃすごい。四条さんは現役の女子高生でいらっしゃる。しかも昨日誕生日の十六歳とはこれまたすごい」
何がすごいのかもう一つよく分からなかったけど、ちょっと私は照れ臭くなって笑ってごまかした。
「当然未経験ですよね? 自転車には乗れますか?」
私はここでも首を横に振った。浜田教官の表情がにわかに曇った。
「う~ん。そりゃまずいかもね。下手したら学校行けなくなるかも知れないよ」
「え? でも学校にはちゃんと許可をもらってます。退学になるようなことは……」
「いや、そのことじゃないんです。そのうちに分かることです」
浜田教官は言い難そうに、不気味な予言を私にした。
「さ、時間もありませんので早速始めましょうか」
それ以上のことは何も言わず、教習が始まった。
第一段階の第一教程では乗車時の服装から取り回し、乗車姿勢から発進停車及びチェンジのアップダウンまで(免許を持ってる人は第二教程までこの一時間で進みます)。
ヘルメットの正しい被り方や、正しい服装などのレクチャーの後いよいよバイクに触ることになった。
教習車はホンダ製「CB400SF」。先輩と付き合ってたころ色々バイクについて教えてもらったからこれくらいは私にも分かるもんね。
車体自体は見た事もないような鉄パイプやらライトがごてごてと付いてる以外はごく普通。大きくて重たそう……ってのが私の正直な感想。こんなのに乗れるのカナ、私。ケッコー不安……。
そんな私の不安はすぐ現実になった。
バイクをささえて、メインスタンドを掛けて……っていう段階でもう既にふらふら。しかも私ってば身長百五十三センチ、体重四十三キロ(あ、体重のコトは秘密だよ!)しかないおちびさんで、まるで力がないの。
浜田教官なんてはらはらしっぱなしで見てたんだと思う。
引き起こしの段階になるともう完全にダメ。鉄パイプでできたガードがあって車体は半分起きてるんだけど、私なんかがどんなにガンバッテもぴくりともしない。どこを持ってもどう持ち上げても持ち上がる気配もない。
他のみんなはもうさっさと終わっちゃって、運行前点検やってる。エンジンかけてる人もいるのに私一人だけうんうん唸りながらバイクと格闘してる。
私っていつもこうなんだ。
私一人だけ取り残されちゃう。
「焦ることはありません」
浜田教官はやっぱり爽やかに言ってくれる。その顔はちょっとひきつってるように見えた気がしたけど。
「ヒザを使って。上体だけでは大変です。ヒザを車体の下に入れて足で持ち上げる様に」
教官は自分のバイクで模範を示してくれた。
同じ様にやってみる。と、バイクが少し動いた。
「動いた! 動きました!」
持ち上がってもないのに私ってすごく嬉しくて、はしゃいでしまった。
「そう! その調子で単車の方へ体重を預けるんです」
やってみるとバイクがじりじりと持ち上がっていく。嬉しくて笑いたくなったけれど、ここで気を抜いたらバイクがまた倒れそう。
ある程度まで持ち上がるとバイクはふっと軽くなった。
それから直立まではほとんど力がいらなかった。
私はたぶん顔を真っ赤にしながら起こしたんだとおもう。荒い息をしながら、顔がじんじんするのに気が付いた。毛細血管が破裂してるようなそんな感じ。
スタンドを立てて私は座り込む。
さっきまでのはしゃぐような嬉しさは今はもうなかった。
自分一人の力でなしとげた充実感っていうのか安堵っていうのか、何か不思議な気持ち。
「さ、まだ教習は始まったばかりです。次に進みますよ」
浜田教官はどこまでも爽やかだった。
メーターの見方と各操作系の説明、運行前点検、エンジンの掛け方、乗車の方法や乗車姿勢と説明が進んでいく。
普段の授業だったらイヤになるような注意や説明も、何故か楽しくて素直に聞ける。
「今度は実際に発進と停止をやってもらいます」
浜田教官はほとんど私につきっきりだった。
他の五人の教習生の人は、もう二輪コースの外周を走り回ってる。
「クラッチレバーを握ってギアをローに入れ、アクセルをゆっくり回しながらそれに合わせ
てクラッチレバーもゆっくり離します。あ、足は出したままで結構です」
説明の通りに私はやってみた。
左のレバーを握ってギアをローに……ローって踏むんだったっけ? 入れて、アクセルってどこまで回すのかな。とりあえず半分くらいまで回してレバーを離してみる。
そうすると私のCBは世にも素晴らしい勢いで前輪を持ち上げてそのまま分離帯の植え込みに突進していった。
「おーい! 大丈夫かー?」
声が聞こえた。
私は気が付いたら外周コースの真ん中でひっくりかえってた。
急いで立ち上がる。背中が少し痛んだけれど、大きなけがはなさそう。
私はCBを探した。
CBは植え込みで完全にひっくりかえってる。どーしよう……。
立ち尽す私の隣に教官がやってきた。
「けがはないですか?」
私はさっきの問いに返事してないことに気付いた。
「あ、だッ、大丈夫です、けど……バイク……」
声のトーンがだんだん下がっていくのが自分でも分かる。
「ああ、あれね」
浜田教官はバイクのところに歩いていく。私もついていった。
教官は軽々と倒れているバイクを引き起こす。
バイクはかなり壊れてる様子。ハンドルは曲がってるしメーターもランプも粉々。バックミラーなんて飴のように曲がって鏡はバラバラ。車体もスリ傷まみれで枝まで差さってる。
「ふむ」
各部を点検して教官は呟いた。
「大丈夫」
教官がセルスイッチに触れると、少し長めのモーター音と共にエンジンが息を吹き返した。
「心配することはありません。こんなこともよくあります」
浜田教官は最後まで爽やかに笑った。
「す、すみません」
私は蚊の鳴くような声で謝った。
「さ、今日はこれでおしまいにしましょう。車庫の前で手帳をお返しします」
教官は壊れたCBに跨ると車庫まで走っていった。
「じゃあ、皆さんの教習手帳をお返しします。名前の呼ばれた方は取りに来てください」
浜田教官の爽やかな声が二輪車庫の前に響いた。
私たち教習を終えた六人は二輪車庫の前で最後のミーティングをしていた。
次々と名前が読み上げられて、個別に注意点やアドバイスがあった。
最後に私の名が呼ばれた。
どんなことを言われるんだろう。やっぱり怒られるんだろうな。そんな事を考えながら前に出た。
「済みませんね、四条さん」
カクゴを決めていた私に考えもしなかった言葉が向けられた。
「CBは四条さんには少し車格が大きすぎました。本来教習の前に気付くべきだったんですが、その所為で四条さんに怖い思いをさせてしまいましたね」
ぽかんとして聞いていた私の前に、教習手帳が差し出された。
「これからがんばってください」
中を開いて見ると、努力しましょうの欄にハンコが押してあった。
こうして私の教習初日は終わった。
3
次の日。
私は浜田教官の言った言葉の意味が少しだけ分かった。
転んだ時に出来たキズがアザになってる。脚や腕に青や紫のアザがいっぱい……。それに筋肉痛もヒドイ。
朝起きて見た私は納得した。
「今が冬じゃなかったら確かに学校行けなくなるよね。これは」
私は真っ黒なストッキングで脚を完全に隠して、制服を着込んだ。体育の時間もジャージは脱げそうにないなぁ、などと思いながら。
単車乗るのって大変なのね……。
私は今更ながら前途に不安を感じた。でも私はやるって決めたんだ。やんなくちゃいけないんだ。
今日も技能と学科の教習があるし、早く帰ってこなくちゃ。
支度を済ませた私はそんな思いで家を出た。
学校が終わるのが待ち遠しい。
授業中はいつもそんなコト考えてる。ちょっとキケン。
最後の授業が終わると私はトモダチとのおしゃべりもそこそこに家にまっしぐら。由起ちゃん、マーちゃん、それに聡美ちゃんゴメンね。
今日は学科一時間と技能一時間が私を待っているの。
私の足取りはいつの間にか駆け足になってた。
家に帰ると早速着替えて、自動車学校へすっとんでいった。制服もベッドに放り出して。
一体何がこれ程楽しいのか自分でもよくわかんないけど、今私は充実しているっていう手応えみたいなものを感じはじめてる。今まで何か一つの目標、それも自分で決めたことに向かって一生懸命になるって事なかったからかな。それとも免許さえ取れたらオトナになれるって期待からかな?
そんな事をくるくると考えながら私は、自動車学校二日目の校門をくぐった。
二日目の今日は学科と技能。
学科は初めてだったけれど、技能ほどの緊張はなかった。失敗しても大丈夫ってゆー安心感みたいなものがあったからね。
実際、授業の感想はちょっと退屈かな? ってカンジだった。
もちろん今日の学科の教官はすっごくひょうきんで冗談が超おもしろかったけれど、スライドとか交通法規の説明はあんまりおもしろくないよね。
でも、練習問題をクイズみたいに答えていくのっていいアイデアよね! 学校でもこんなところ見習えばいいのに。そしたら私の嫌いな数学とか社会もスキになりそうなのにな。
そんなコト考えながら一時間を過ごした。
次は技能教習だ!
そう思うと途端に体が軽くなって、昨日と同様にスキップしながらコースへ下りていった。 教官は昨日と同じ浜田教官だった。
らっきー! などと胸の中で指を鳴らした。やさしそーで浜田教官ってスキ!
今日も二輪の教習には数人の人が集まってたけど、免許をもっていない私だけはみんなと別プログラムになった。免許を持ってる人は今日がみきわめになっちゃうんだ。
てコトは?
「四条さんこちらにどうぞ」
浜田教官が呼んだ。
「今日は第一段階の第二教程です。免許を持っていないのは四条さんだけですので今回の教習はマンツーマンで行います」
だって!
なんかちょっと嬉しい。
私たち二人は二輪の車庫前に移動した。車庫前に止められているバイクは見たこともないバイクだった。
「先生、これは?」
私は訊いてみた。
「ウチにはCBよりシート高の低い単車はこれしかないんです。ちょっと辛いかも知れませんが我慢してください」
そのバイクはやはりホンダ製の「CBR400RR」っていうバイクらしい。低くてカウリングっていうのが付いててなんかスゴク速そう。でもカウリングからはやっぱり鉄パイプのガードが突き出てて、ランプやアンテナが付いてる。
跨ってみると確かに両足が地面につくし、車重もちょっと軽い感じがした。これなら私にでも乗れるかも。
その辺りを確認した浜田教官は
「今日の教習は安全走行についてです。具体的には死角についてと情報の取り方について勉強しますが、四条さんは確か二輪には乗ったことがないんですよね?」
と訊いた。
頷く私に
「じゃあ今日はその辺りもちょっと練習してみましょうか」
と、言ってくれた。
昨日あんだけひどい転倒したらそりゃ不安になるわよねぇ。
それでも私はそんな内心の落胆は口にせず(顔には出てたかもしんないケド)、素直に従った。
今日の教習はほとんど私の練習で時間が潰れてしまった。
後ろを支えてもらいながら、半クラッチでそろそろ走る。おかげで私、半クラッチは得意になっちゃったよ。もう半クラッチなら任せてよ状態。
結局何回も転んでそこらじゅうスリ傷と打ち身だらけになっちゃったけれど、今日一日でステップに足を乗せられるようになったんだから! スゴイでしょ?
エッヘン!
それに教習の後、「今日一日でよくここまで乗れるようになりましたね。この調子なら大丈夫ですよ」って浜田教官に褒めてもらったんだ。体じゅうがイタイけどそんなのみんな吹き飛んじゃうよね。
でも返ってきた教習手帳のハンコは「努力しましょう」のところに押してあった……。
浜田教官ってケッコーシビア。
第三教程はみきわめ。
でもつい先日二輪に乗れるようになった私がそうそう簡単には受かりっこないよね。2回落っこちちゃった。
第二段階に入ってからは教習がオニムズ。しかも教官は浜田教官のほかにあと四人いるんだけど、もう一つウマがあわないんだな。特に西田って教官がいるんだけどコレがサイアク。
西田教官って私がコケると「なんべんやったら気が済むんだ」みたいなえらそーな事ヘーキでゆーんだもんな。それにかなりカタリ入ってて、「ちゃらちゃらバイクに乗るもんじゃない。バイクに乗る時は命がけで乗れ」とかなんとかゆーの。
おまけに私が泣き入れたら「甘えるんじゃない」だって。歳は私のお父さんと同じ位なのに人間できてないよね。
とーぜん私は西田教官の教習はパス。
せっかく楽しい教習が楽しくなくなっちゃうもんね。
でもそんな私でも第六教程辺りから段々とつまらなくなってきちゃった。とうとうアノ悪名高き一本橋とスラロームが出てきたんだもん。何度やっても一本橋は落ちるし、スラロームでコケるしもう散々。
浜田教官は口は優しいけれど手は貸してくれないし、いつも教習手帳は「努力しましょう」だし、教官ってみんな結構ツメタイ。
学校の体育の時間の着替えなんてヒサンなんだから。
体じゅうアザだらけの上に筋肉痛で湿布だらけ。男の子に「膏薬くさい」なんていつも言われるし、日増しにふえてくキズにふだんあんましゃべんないようなトモダチにも「大丈夫?」とか心配されるありさま。
もうヤメちゃおうか、なんて思考がマジに頭に浮かんでくる。
でもここでヤメちゃうとお姉ちゃんにナニ言われるか分かったもんじゃないし、お父さんにも怒られちゃうよね。
そうよ、卒業するまでの我慢じゃない。それにこんなんでもそのうち卒業させてくれるよ。 私はそう楽観的になっていった。
でも第二段階のみきわめに四回落ちてなお、合格のハンコはもらえなかった。
本格的に私イヤになってきたよ。
どうしてこんな簡単な(様に見える)事ができないんだろう。
私が単車に乗ることは無理なの? 私は永遠にコドモのままなの?
第二段階は五時間で済むはずなのに私はもう倍以上も時間かけてる。私だけだよ、こんなに永いこと第二段階にいるの。
私はつくづく自分がどうしようもなく思えるようになった。
私は今までできない自分に腹を立てたりするってコトがなかった。自分はトロいからできなくても仕方がないと思ってたし、周りが合わせてきてくれたからそれでもよかった。
それにその時私ができなくっても誰かいつもどうにかしてくれた。
浜田教官は言った。
「道路の上では私達はどうにもしてあげられません。四条さんが運転する間に起こる出来事は四条さんが対処しなくちゃいけないんです」
そりゃそうだとは思うんだよね。そうだと頭で分かってみても、体がなかなか思うように動かないんだもん。
あーあ、私の才能って何があるんだろ。
私は何をやったらうまくいくんだろう。
何をやってもダメな私はこんなコトをよく考える。誰か私の才能見つけてくれないかって本気で思う。そうしたら私は頑張れるような気がするのに。
私は六回目のみきわめに何とか合格した。
それも何だかお情けのような気がするけれど、とにかく第三段階への切符を手にした。
入学してから三週間が過ぎようとしていた。
第三段階は主に法規履行と安全運転の教習になる。つまり操作の基本手順は既に終了という段階なんだけど、私は未だに坂道発進でエンストするしなんでもないようなところでよくコケる。
きっと学校泣かせの問題児なんだろうな。実際浜田教官、よくつきあってくれてるよ。
仕事だから当然じゃん、って最初は思ってたけどこの頃何だかカワイソーになってきた。
第三段階はたったの三教程。だからあっという間にみきわめの時間。
かなり危なっかしい走りだったにもかかわらず、私はなんと一回で合格した。
最初は信じられなかったけれど
「次は卒検(卒業検定)です。誰が見ることになるかは分かりませんが頑張ってください」
っていう浜田教官の言葉にようやく実感が出てきた。それと同時に驚きも。
「え? 浜田教官、見てくれないんですか?」
「うーん、誰が見るかは決まってないんですよ。もしかしたら私が見ることになるかも知れませんが……」
と爽やかだけど歯切れの悪い答え。
検定当日。
私の走るコースが発表された。どきどきしながら頭に走るコースを思い浮かべる。
そして私の最も気になる検定員の蘭には「西田」の名前が!
そんなのないよー! あんなのに掛かったら私百回くらい落とされちゃう。検定の途中で「へたくそ」とか、いやいやもっとひどくて走る前から「不合格!」とか言われたりして。
「四条さん」
打ちのめされたようにうなだれる私に声が掛かった。
振り返ると浜田教官だった。
「ちょっと気になって見に来ましたよ。緊張していますね」
緊張とはちょっと違うような気もしたけれど私はとりあえず苦笑いをした。
「ええ。実は自信なかったりして……」
「そうですか?」
浜田教官は不思議そうに私を見た。
「私は通ると思ってますよ。でなきゃ第三段階は通りません」
へえ、そうなんだ、と思っていると
「普段通りに走ってください。必ず受かります」
なんて言ってくれた。力付けてくれてるんだと思うと胸が熱くなった。
「そろそろ時間です。行ってください」
声に押されて私は一礼の後、コースへと降りていった。
検定の前に西田教官から注意があった。前みたいに尊大な態度はないけれど、私やっぱりこの人、生理的に受け付けないような気がする。
「乗車してください」
西田教官の声に気が付いて私は「は、はい!」とみっともなく大声で応えてしまった。
仮免許制度のない二輪の検定は教習所の中のコースで行われる。
私の通ってるこの教習所では四輪と二輪でコースがわかれてて、基本的に二輪は二輪コース、四輪は四輪コースで教習が行われているけれど二輪であっても例えば急制動のように広い場所が必要な場合とか教習の最終段階になってくると四輪用の教習コースで走ることになる。私も何度か走ったことがあるけれど私はもっぱらクランクや一本橋のある二輪コースのヌシみたいな存在だったから、四輪用のコースに慣れてるとは言えなかった。
ところが乗車して走り始めると意外に乗れてるみたい。
安全確認で振り返ってもふらふらしないし、方向指示器だってちゃんと操作出来た。坂道発進でも我ながら驚くほどスムーズ、さらには一回しか成功したことのない一本橋も通過した。
急制動を規定のラインで完了した私はすべてのルートを走り終えて検定を終えた。
不思議と気負いがなくて、落ち着いてた。
何だか降りてから胸がどきどきして、足ががくがくと震え始めた。
そして全員の検定が終わってしばらくすると、結果が発表された。
合格者の中に私の名前があった。
エピローグ
桜の花が咲き始めていた。
永くて短い一年だと思った。
甘く切ない思い出の詰まった一年。苦しくて悲しかった一年。
私は一年たって二年生になった。体じゅうのアザやキズのほとんどが消え失せて、今の私は一年前と変わらない姿。
ただ一つ、私の手の中にある運転免許証を除いて。
私は単車を買った。
紅いカワサキ製250cc「バリオス」。
400ccは魅力的ではあったけど、車検もあるし維持費も高いから手が出なかった。
最初は反対してたお母さんも最近遂に折れちゃったみたいで、安全の為にってヘルメットやグローブをお父さんに内緒でいろいろ買ってくれる。
「許すって言うのはこういう事よ」
そう言ってくれたお母さん。
そして何も言わず、見守ってくれるお父さん。
きっと私幸せなんだよね。
そう思いながら今日もハンドルを握る。
去年背中ごしに見えた世界が今、目の前に広がってる。
私は何処にでも行ける、そんな気がした。そう、あの喫茶店にも、白樺の湖畔にも……。
街中を離れると周りから車の影は消えて私は一人になる。
エンジンが私の右手に応えて軽やかに唸った
優しい風が私の傍らを吹き抜けていく。
気持ちいい。
私は一人で走っている。誰かに助けてもらうでもなく、誰かに束縛されるでもなく。
そんな時私はお父さんの言葉の意味をちょっぴり理解できた。
これが「自立」って言うものなのかも知れないね。
「ねえ、先輩。私、ちょっと大人になったかな?」
ヘルメットの中でそう呟いて、私はぺろりと舌を出した。
そういえば、その後先輩とはどうなったかって?
実は今度の休みにツーリングに行く約束をしたんですよ、これが。
前に連れていってくれたあの白樺の湖まで。
免許を取って単車を買ったあたりから、先輩の態度が少しずつ変わってきたみたいで、最近はまたちょくちょく会って単車の話とかしてる。
以前のような関係とはちょっと違うけれど、こーゆー関係も悪くない、カナ?
気がつけば、いつしか道は並木の一本道になっていた。
そしてなお木立ちに挟まれて彼方に続くオープンロードの先へと、私はアクセルを開いた。
完
追伸
お姉ちゃんへ。
私、教習所を八時間オーバーで卒業して賭けに勝ったんだけど、例の約束どーなったの?